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魚心あれば水心

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魚心あれば水心あり:魚と水は互いに相手を欠くことのできない密接な間柄であることに例え、相手が好意を持てばこちらもそれに応ずる用意があることにいう(広辞苑)

思考空間としての芸術

思考空間としての芸術_b0010426_103821.jpg

TITLE:李禹煥〜余白の芸術〜
Lee Ufan -The Art of Margins-
DATE:2005年9月17日〜12月23日
TIME:10:00~18:00
AT:横浜美術館
FEE:¥1000

もう一昨年も前になるが、横浜で、李禹煥(リ・ウーファンLee Ufan)の大きな展覧会が開かれた。
李禹煥は、私が一番好きな「日本の」現代作家。
名前から推測できるように、景尚南道生まれの韓国人なのだが、制作活動の中心は日本であり、日本の現代美術に大きな影響を与え、また与えられてもいるので、「日本の作家」と言っていいと思っている。



彼の作品に初めて出会ったのは、岐阜県立美術館。1988年の「今日の造形5 李禹煥展ー感性と論理の奇跡」であった。別の展覧会(ルドン展)が目的で行ったのに偶然観て、一発でノックアウトされてしまった。一目ぼれ。

展示されていたのは、平面作品「点より」「線より」などのシリーズと、いくつかのインスタレーション。第一印象は、「なんて気持ちの良い空間の作り方だ」。
壁面に飾られた平面作品は、はずむように、うたうように、揺らいだり、凪いだりしている。中央には鉄やガラス、石を組み合わせたインスタレーションが置かれ、静かに哲学している。
作品を鑑賞することより、展示室にいること自体が心地いいこの作家は何者なのだろう、と思っていたら、彼が日本の現代美術界で新しい表現のムーブメントを作っている作家と知り、注目するようになった。


私は、完結的で自立的なテクストより、内部と外部が出会う風通しの良い媒介項が好きだ。芸術作品は、観念そのものにも現実そのものにも成り得ない。それは観念と現実の間にあって、両方から浸透されつつまたそれらに影響を与える両義的なものだ。(「交通」より)


そんな出会いからだいたい20年経ち、40代だった作家は60を越えた。
私も同じように、20歳ほど年をとった。
何かの機会に作品に触れることはあっても、彼の作品に取り囲まれて時間を過ごすチャンスは、この20年間、全く持てないでいた。
しかも、場所はあのMM21にある横浜美術館。

思考空間としての芸術_b0010426_103233.jpg李のインスタレーションは、古びた鉄や自然の石を使った重いものが多く、平面作品も、周辺空間をたっぷりとって観賞できないとつまらない。展示場所(美術館)を選ぶ作家なので、ヨコハマなら理想的。バブル絶頂期に計画された横浜美術館は、もののわかった人が贅沢に設計した、数少ない日本の「きちんと作られた美術館の1つ」なので、観賞環境が抜群に良いのだ。

これは、行ってみるしかないだろう。


美術館に近づくと、エントランスにもいくつかの作品が置かれているのが遠くからも見えた。人通りが少ないので、こういうことも可能になる。
興味のない人なら「こんなのが芸術作品なのか?」といいたくなるような、鉄や石が積み上げられたり並べられたインスタレーション、白い壁に四角い「点」をはけで塗っただけの、「絵画」とも呼べないような平面作品。

李の作品は昔よりもずっと「年をとって」いた。若い頃の作品には、観ているうちに対象(作品)の力に巻き込まれるような「表現したいエネルギー」を感じたのだが、この展覧会の作品たちは、よりシンプルに、より「最低限の」表現によって、「思考する主体(鑑賞者)のための空間」を生み出そうと試みられていて、それが「老成」に感じられたのだ。


私の試みは、近代主義的な全体性や自立した対象物を作り出すこととは異なる。描くことと描かざるもの、作ることと作らざるもの、能動と受動を、刺激的に関係づけることが重要である。(「交通」より)


思考空間としての芸術_b0010426_1033789.jpg修業によって何かを得た「仙人」とか「隠者」というような人が目の前に座っている。
その人に、自分の抱えている、うまく形にならない「問い」を投げかけたら、非常に抽象的な答えを返してきた。その「答え」は、私の「問い」と文脈上は対をなしていないにも関わらず、私の思考にとってその「応え」が一つの「ヒント」となって、その先にある新しい思考に、私自身が踏み出していく。そんな「やりとり」のための空間芸術。
彼の作品の芸術性は、作品そのもの以上に、作品鑑賞のプロセスにある。彼の作品は「哲学的」と言われるが(実際、大学では哲学を専攻していた人なのだ)、若い頃よりもずっと「哲学性」が増してしまったので、「芸術はリアリティ」と考える人は、彼の作品観賞は苦痛かもしれない。
結論を言ってくれず、現実を忠実に写し取ってきたかのようなリアリティもないからだ。


アートは、詩であり批評でありそして超越的なものである。

そのためには二つの道がある。一つ目は、自分の内面的なイメージを現実化する道である。二つ目は、自分の内面的な考えと外部の現実を組み合わせる道である。三つ目は、日常の現実をそのまま再生産する道だが、そこには暗示も飛躍もないので、私はそれをアートとはみない。
私の選んだのは二つ目の、内部と外部が出会う道である。そこでは私の作る部分を限定し、作らない部分を受け入れて、お互いに浸透したり拒絶したりするダイナミックな関係を作ることが重要なのだ。この関係作用によって、詩的で批評的でそして超越的な空間が開かれることを望む。(「余白の芸術」より)


芸術作品に「思考(または所作)の結論」を求める人は、彼の作品に「一体何が言いたいんだ!」と、苦痛や拒絶を感じるかもしれない。それもまた、作品が意図する「芸術表現」の一環だ。

芸術作品を通じた思考は、読書や対話によるものとは異なり、自分の「体感」から考え始める。
「思考」を進めるためにはどうしても言葉を使わなければならないけれど、「体感」を言葉に変換し、その言葉を作品に投げかけながら視覚を移動させることで、別の思考ー言葉ーが紡ぎ出されてくる。
作家が、制作を通じて思考している。その思考に、でき上がった作品を観る鑑賞者の思考が影響される。作家がそこにいないにもかかわらず、あたかも聞こえない声を介在させて作家と対話しているような気になるのだが、対話している相手は実は作家ではなく、その作品によって想起される私のイメージ。
でも、そこに確かに作家はいる。


芸術作品における余白とは、自己と他者との出会いによって開く出来事の空間を指すのである。(「余白の芸術」より)


「作品」が介在することで、自分との対話が深まる「刺激的な」芸術作品は他にもあるが、「展示された空間」そのものが作品で、かつその「展示空間に身をおく」ことで思考が開かれていく「プロセス」を作品にしようとしている作家はあまり知らない。

思考空間としての芸術_b0010426_1035375.jpg考え事がしたい時の、小さい頃からの私の習慣は、裏山の工場ー祖父が経営していた陶器工房ーの跡地に行き、割れた茶わんや土に埋まった、酸性雨でぼろぼろに穴が開いた石膏型を眺めに行くことだったが、大人になり、生まれた街を離れて都会で暮らす私はもう「考え事をするために裏山に登る」ことはできない。だから、美術館に行く。

李の作品は、「思考のための時間と空間と相手」を求めて作品と向き合う私にはひどくつきあいやすい。決して思考の邪魔になるようなことを言わず、たまに少しだけ刺激的な感覚を返してくれたかと思うと、何時間でも黙って傍らに在ることもできる。本当に心の奥底で人と出会いたいと思っていて、それなのに誰とも会うことができない時、こういう「気の合う作家」の作品が身近にあるって重要なことだ。
次にいつまた会えるかわからないので、とりあえず図録を買い、ポスターを買った。
何かまとまった考えが生み出されたわけではなかったが、久しぶりにゆっくり感覚を解放したら、もう少し先に進んでみるのがいいかもしれない、という気になってきた。

超越を夢見ながら生きるのが人間であろう。それゆえ芸術表現は、反省と飛躍を暗示するものでありたい。人間が内と外との接点である身体的存在であるように、作品もまた自己と他者を媒介し高揚させる生きた中間項でなくてはならない。(「交通」より)


私の作品は絵画でも立体でもないけれど、「生きた中間項」を生み出そうとしているという点ではやはり「アート」なんだと思う。次にまた彼に会える時までに、私の「アート」をもっとはっきりと投げ返せるようになっていたい。

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by fishmind | 2007-03-10 10:17 | 文化と芸術の話

by AYUHA