ブログトップ

魚心あれば水心

uogokoro.exblog.jp

魚心あれば水心あり:魚と水は互いに相手を欠くことのできない密接な間柄であることに例え、相手が好意を持てばこちらもそれに応ずる用意があることにいう(広辞苑)

田中一村症候群

b0010426_0235089.jpg

UMIGAME no HITORIGOTO
Kokuto Shochu
Amami Shurui Co.Ltd.
Amami, Kagoshima, Japan


何だかひどく「キモチガワルイ」。

奄美大島の黒糖焼酎に引っかけて、異才の日本画家「田中一村」の事をブログに書こうとあれこれ調べているうちに、「田中一村は一時『小笠原登』の家に寄宿していたことがある」という記事を発見したからだ。



別に驚くことではないが、驚いた。そして、たまにこんな風に「感染症に縁づけられている」と感じることがあるのを、ひどく不気味に感じた。
やっぱり、魅入られている。


話題のドキュメンタリー映画「ヨコハマメリー」が近所の映画館で上映されるというので見に行く計画を立てたのは、去年の10月。併映が「アダン」であった。これが田中一村をモティーフにした映画と知って、じゃあついでにとこっちも見た。
今回の一連の「田中一村事件」の、これが始まり。

映画はあまり「感心しない」出来であったが、田中一村を知らない人に一村と奄美大島を知ってもらうという意図はそれなりに成功していると思われた(3000人のオーディションから選ばれたというヒロインの少女ははっきり言っていらないと思ったけど。でも実はこのオーディションにすごくお金がかかっているんじゃないかね。それよりもカメラワークと脚本にもっと金をかけるべきだったと思うぞ私は。)。


そもそも私が日本画家「田中一村」を知ったのは、TV番組「開運!何でも鑑定団」だった。多分10年かそれよりちょっと前くらいじゃなかったかと思う。
持ち込まれた絵は本物で、高額の鑑定結果が出たのだが、どんな絵だったかは忘れた。そんなことより、番組で紹介された彼の作品の数々に「この人は一体何者なんだ!」と度肝を抜かれたことを鮮明に思い出す。
「何で私はこんなすごい作家を今まで知らなかったんだろう」という、紹介映像を見ながらの私の疑問は、多くの「田中一村ファン」が共通して持っている印象だろう。田中一村は日本画壇から正当な評価を受けることなく1977年に亡くなったが、死後3年経った1980年に奄美大島を訪問したNHKの番組ディレクターの目に留まり、日曜美術館に登場したことで、一躍社会の脚光を浴びた。1985年、あまりの反響の大きさにNHK出版が作品集を発行したのが彼の最初の画集。

多くの美術ファンは、まず1983年の「日曜美術館」で彼を知り、次に1985年の画集で知り、1995年に彼が日曜美術館に再登場したのを見て知り、そのちょっと後に何でも鑑定団で紹介されたのを見て知り、と彼への認知を広げてきた。そして2001年に彼の記念館が奄美大島にオープンしてからは、ここを偶然訪れた人が新しく「一村マニア」になっていくことになる。


最初に発行された画集の1999年第27刷「田中一村作品集」が、今手元にある。
英語学校の同級生が貸してくれたのだ。

映画「アダン」を見て2週間くらいたったある日、授業で向かい合わせになった彼女が、机の上に田中一村の絵はがきを出しているのに気づき、「その絵はがき・・・」と話しかけたら、「えっ、知ってんの?田中一村。」。一気に意気投合。
彼女は鹿児島県の出身で、鹿児島市で開催された展覧会で絵はがきを買ったのだという。東京のどこかで買えるのでは、という私の甘い期待はあっさり裏切られた。東京はおろか、鹿児島県でも奄美大島に行かなければ、基本的に「一村もの」は手に入らないらしい。

私が、映像でしか一村の絵を見たことがないというと、すぐに画集を2冊も貸してくれ、「同じファンのよしみ」と、レア物の「田中一村」絵はがきをくれた。(私もかわりにレア物の『香月泰男』の絵はがきをあげた。)有名な「アダン」や「クワズイモとソテツ」は、奄美の田中一村記念美術館ですら「複製展示」なのだそうだ。巡回展の時は本物が来るそうで、彼女は鹿児島市内で開催された展覧会で本物をみてノックアウトされたそうである。
「とにかく本物を見なくちゃダメよ」というのだが、今度いつ巡回展があるのか。
「でもどっちにしても、一度は奄美に行った方がいいよ。」

こんなやりとりがあったのが11月。同じ11月に、春先から計画していた「共生と隔離」というハンセン病の勉強会で、ハンセン病回復者で作家の伊波敏男さんと6年ぶりに再会した。伊波さんは沖縄出身。進学のために療養所を抜け出し、アダンの木の陰で父親の船を待ったエピソードを聞き、海岸にそびえるアダンの木の存在感と、それに身を潜めながら海上に目を凝らし、船の合図を待つ伊波少年のイメージが、一村の絵と重なった。
その翌日、何となくロマンチックな名前に魅かれて、今日紹介した奄美の焼酎を買った。この酒は、タイトル以外に特徴のない、凡庸な味わいだった。
やはり、一度は奄美に行くべきかもしれない。


「一村づいてます」。
映画に誘って初めて田中一村を知ったという友人のKちゃんからメールが来た。母親宛てに田中一村の絵はがきが届いたり、偶然田中一村のニュースを見たりすることが最近続いたという。
「奄美で自主キャンプをしている野球選手が、一村記念館でインタビューに応えていたのを見ました。その選手は一村が好きで、わざわざ奄美をキャンプ地に選んだらしいですよ。」

一村、メジャーになりつつある。


一方の小笠原登「先生」。
映画「アダン」では、千葉の家を売り、単身奄美大島に向かった一村が最初に身を寄せる場所が、奄美和光園になっていた。映像ですぐ「和光園だ」とわかったが、登場した園長が小笠原先生だったとは思ってもみなかった。
慌てて年賦を調べたら、確かに昭和32年から41年の退官まで、先生は和光園の園長をしておられる。
一村が奄美にわたったのは昭和33年。驚くほど、時期がぴったり重なっている。

「小笠原登」と言っても知らない人の方が多いと思う。
この人は「らい(ハンセン病)はそれほどはうつらない」とハンセン病の隔離政策に反対し、そのために学会から異端視されて、全く評価を受けることなく葬り去られた医者である。
私はもちろん、小笠原先生のことを直接は知らないが、先生の京都大学皮膚科特別研究室時代の教え子の大谷藤郎先生を存じ上げていて、大谷先生から小笠原先生の話をいろいろと伺っているので、何となく「先生」を省略できないくらいの「身近さ」には感じている。

一村と小笠原医師は、ともに、自分の思想を貫いたために中央から全く省みられず、それでも信念を持って自分の仕事に臨み、人生を全うした。 二人の共通点は多く、とても気が合ったようだ。

現在二人の業績とも、死後の再評価を受けつつあるが、「田中一村」がgoogleで59000件もヒットするのに、「小笠原登」の検索結果は449件。
私(は同姓同名の作家が別にいるので、2ワードくらい加えた検索結果)の検索結果より少ない。問題ぢゃないかっ?!

大衆の心にストレートに響く絵が、マスメディアに載る事で専門家の評価を飛び越えて広く知られることは、極めて喜ばしいことだ。
でも一方で、病いという「社会のネガティブな側面」に真摯に目を向け、患者の人権救済のために働いた人の仕事に対する尊敬心も、ストレートに大衆に伝わる社会であって欲しいと思う。
絵画のような芸術は、作家の死後も作品を見れば「よくわからないけどすごい」とストレートに伝わることも多いけど、例えばマザーテレサの人権救済を「すごい」と思うには、直接仕事場に出向いてすごさに触れるか、その人の「すごさ」を誰かが「報道」するしかない。
その人の「報道」は、その人が「生きて仕事をしている」うちに記録しておく必要がある。死後にその仕事を語りたいなら、その人を知っている人が積極的に「語る」か、その人を直接知っている人からコメントを採って、編集し、報道するしかないが、どちらにしても、伝える人が何人も間に介在するから、伝える作業の間に伝えたい本体が変質してしまう。(良い方にも、悪い方にも)

映画「アダン」は、奄美大島の宣伝映画としては「まあこんなものか」という感じだったが、田中一村の映画としてよい出来だとは、あまり思えなかった。
だれがこんな方法を考えたのかは知らないが、田中一村に対する想像力の乏しさを、「森の妖精」を出すことで補おうとしたってダメなのだ。何かを伝えたいなら、「伝えたいもの=対象」に対する徹底した愛情がなければならない。愛情があれば、想像力は膨らむ。想像力を膨らますことで、表現に幅が出る。
その幅のある表現の中から、伝える方法を切り取って組み立てるのが、伝える作業の「順番」だ。
映画は、伝える方法ばかりが先走っていた。

伝えるって、難しい作業だとつくづく考えてしまった。


私がもし、「小笠原先生」の仕事を伝えるとしたら、どういう方法をとるだろうか。
実はもうずいぶん前から、多分10年以上も、光田健輔と小笠原登のことを書いてみたいと思っていたのに、そのチャンスがないまま、ずいぶん時間が経ってしまった。彼らのことを直接知っている人も、どんどん鬼籍に入っているのに、私はまだこんな場所で、身動きできずにたたずんでいる。

「どうする気なんだよ。え?」
ヤな感じの「声」が胸に響いた。時々、こういうことがあるのだ。


一村と小笠原先生の因縁に感じた気持ち悪さの原因は、感染症から離れようとするたびに、それを押しとどめるような流れがどこからともなく起こるような気がしているからだ。考えを固めなければならない時期がとっくにきているのは知っているが、「感染症と差別」の問題にきちんと取り組む体力は、今はない。せっついても無駄だ。

自分の魂にどう片をつけるかは、帰国後考えることにする。
それで手遅れになるのなら、この出会いにはきっと「最初から」縁がなかったんだ。

記事が気に入ったらここをクリック!
by fishmind | 2007-03-05 00:38 | 感染症の話