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魚心あれば水心

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魚心あれば水心あり:魚と水は互いに相手を欠くことのできない密接な間柄であることに例え、相手が好意を持てばこちらもそれに応ずる用意があることにいう(広辞苑)

ハシリュウ逝く

ハシリュウ逝く_b0010426_2358498.jpg

TITLE:橋本龍太郎元総理大臣の死去
DATE:2006年7月1日(日)
TIME:14:00
AT:国立国際医療センター

ハシリュウ死去。

ミクシイで「ハシリュウ危篤」のニュースを見たのは、1日の早朝だった。私はテレビを見ないので、基本的なニュースソースは新聞とインターネット。新聞は半日以上のタイムラグがあるので、最新ニュースはだいたいネットで知ることになる。



通常読んでいるポータルサイトはヤフーとエキサイトなのだが、ミクシイのニュースは、他のポータルより若干掲載時間が早いようである。ミクシイの場合、記事へのコメントという形で日記が読める(もちろん他のメディアでも同じようなことはできるが、ミクシイが一番クリッカブルだ。)ため、世間一般の反応も読めて便利だ。
重体ニュースに反応した日記の中には「今夜が山だね」というような書き込みもあったのだが、私は直感的に「回復はない」と思っていたので、あとは「その瞬間」がいつなのかを定期的なチェックで確かめるだけだった。

1日午後3時、おそらく記者発表後あまり時をおかないで、「死去」のニュースが掲載された。ネットニュースの掲載スピードはだいぶ速くなってきているらしい。

彼の経歴紹介を読みながら、現民主党党首小沢一郎は、自分がハシリュウより長生きすると思っていただろうか、そもそも、彼らがもっとも「血気盛んな時代」、自分たちの関係がこのような形で終わると思っていただろうか、などと想像していた。こういう番狂わせ、人生にありがちだ。

ハシリュウは、厚生族の首領である。(であった、と書くべきか。)現時点では、彼と「薬害」の関わりに言及しているニュースは少ないようだが、彼が「薬害問題」に与えた影響は大きい。
その事実が、今、私にこの記事を書かせている。

スモン(キノホルム薬害)訴訟を調べていると、「1979年、確認書による和解が行われ、当時の厚生大臣が謝罪し、薬事二法(薬事法改正及び副作用被害救済基金法)が成立した。」と書いてある文章に出会うが、この「当時の厚生大臣」というのはハシリュウのことである。
また薬害エイズ(血友病患者HIV感染被害)問題に関しては、ハシリュウはまず1984年3月から1986年7月まで、自民党の医療基本問題調査会長であった。(アメリカが、HIVに対してより安全な加熱血液製剤に切り替えるよう日本に勧告したのは84年10月、加熱血液製剤の使用が承認されたのが85年7月、血液製剤使用適正化ガイドラインが策定されたのが86年7月。)
ハシリュウが自社さ連立政権時の自民党総裁だったのはご存じの通りだが、彼の首相任期は1996年1月から1998年7月。菅直人が薬害エイズ訴訟和解の立役者であることは今更言うまでもないが、この、さきがけ出身市民派「菅直人」を就任直後の組閣で「厚生大臣」に任命したのがハシリュウなのである。

この第一次橋本内閣組閣ニュース、私は、印刷機を利用していたボランティアセンターで聞いた。HIV薬害和解成立(96年3月)直前のイベント(和解を求めて患者が厚生省前の日比谷公園で座り込みを行った大規模な抗議行動)を前に、誰が厚生大臣になるのかと注視していたが、厚生大臣は菅直人、と聞いた時、「どうやらハシリュウはこの和解を成功させるつもりのようだ」と身内で話し合ったことが、昨日のことのように思い起こされる。

ハシリュウの父親、橋本龍伍は、やはり衆議院議員・厚生大臣を務めたが、結核性カリエスによる身体障碍者でもあった。この父親がハシリュウの政治的スタンスにどのような影響を与えていたかについての知識は全く持たないが、製薬会社と厚生族議員の政治的な結びつきの中で、いろいろと表に出ない関係(要するにお金のやりとり。最近の一億円よりもっともっとあるだろう。)があったのは違いないとしても、この父親の存在は、ハシリュウを、全くの極悪人で患者を食い物にしても何の良心の呵責もない、という人間には育てなかったのだろう。

「ハシリュウ死去」のニュースにからんだミクシイ日記(ニュースが流れて5時間経った時点で386件あった)を見ていると、嫌いとか最悪の政治家と言ってる人も、実はこのキャラ憎めなかったという人が多いんだなあ、と感じる。政治家としては大成功だ。
そうでなければ、総理大臣を長く務めることは無理なはずだが、最近の、国民全体の価値観が薄っぺらで、政治家の評価を外面の良さだけで判断し、総理大臣ですらそれほど高いものが求められていないという時代の傾向を省みると、こういうタイプの政治家が総理大臣になる日は、もうしばらくは来ないのだろうなと思ったりする。
政治の舵取りは、救えたはずの命を大量に失わせ、また一方で、失われようとしている命を大量に救う。厚生行政に強い影響力を持っていたハシリュウは、おそらく、その両方の舵取りをしながら、自分の野心を全うした。大物ではなかったが、一つの典型的な政治家スタイルを忠実に踏襲した、政治家らしい政治家ではあった。

彼の影響によって失われた命と救われた命の数のどちらが多かったのか、私にはわからないが、失われた命の側に寄り添おうとしている以上、彼の仕事に高い評価を与えることはできない。
しかし、政治という権力の場においては、「悪」に自覚的にコミットできる判断力は評価を受けてしかるべきであり、忌むべきは「外面のよいバカ」が権力を握ることだという認識は持っている。そしてどうやらこれからの日本は、「外面のよいバカ」が政権を取りそうな気配へと動いている。
やれやれだ。

ハシリュウが亡くなった国立国際医療センターのVIPルームは、ハシリュウの母親も長く入院しており、生前、彼は週に1回ほどはこの病院を訪れていた。
この病院の病棟エントランスには、ここに、HIV訴訟和解の成果として、国のAIDS治療拠点『エイズ治療・研究開発センター』が作られたことを記すプレートが掲げられている。

死は、誰にも平等に訪れる。
長い苦しみの果てにある死と、予期せず突然もたらされる死。

後者を「より幸せな死」と見るならば、倒れて1ヶ月で逝った彼は幸せだったと言えるだろう。彼が生前なした仕事が、多くの人に長い苦しみの果てにある死をもたらしたとしても。

「すべての人は自らの死を引き受けることから逃れられない」という事実に直面した彼は、どのように自らの仕事を振り返ったのだろうか。あるいは振り返るいとまは与えられなかったのだろうか。自分の生きている世界と別れ、愛する人に永遠に会えなくなるその瞬間に、彼は何を考えたのだろうか。
そしてそれは、権力のピラミッドの最底辺にいる人のその瞬間と、どこが同じで、どこが違っていたのだろうか。

「人は、生きてきたようにしか死ねないものだ。」という言葉があるらしいが、世界の因果は、それほど道徳的には回っていない。

(今日の写真は、ハシリュウが死んだ病院のロゴマークである。)

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by fishmind | 2006-07-03 00:02 | 感染症の話

by AYUHA