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魚心あれば水心

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魚心あれば水心あり:魚と水は互いに相手を欠くことのできない密接な間柄であることに例え、相手が好意を持てばこちらもそれに応ずる用意があることにいう(広辞苑)

天国のドアを開けて

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Heavens Door
Strong Golden Ale
Hamanako Brewery
Hamamatsu, Japan

このビールと同じ名前のライブハウスが、我が家の斜め前にある。
そのライブハウスのサイトを掲載するべく調べていて、これがSMクラブや出張風俗店に多い名前らしいことに気がついた。出会い系サイトもあるし、アダルトショップもある。
そういうイメージの名詞なのか。



「KNOCKIN'ON HEAVEN'S DOOR」と言えばボブ・ディランの名曲。私はエリック・クラプトンがカバーしたこの曲が入ったアルバムを持っていたので、クラプトンの曲だと結構長く思っていた。
この名曲をタイトルにした映画の紹介も、大量に検索にかかってきた。音楽は「天国の扉」という日本語の曲タイトルの方が知られているためか、あまり検索にかからなかった。
99年公開のドイツ映画「ノッキング・オン・ヘブンズ・ドア」は、二人の末期ガン患者のロードムービー。この前振りから私が連想したのはグレッグ・アラキの「The Living End」(自暴自棄になった二人のゲイHIV感染者のロードムービー。ヒジョーに暗い。)だったが、ストーリー紹介を読んだら、どうも「テルマ&ルイーズ」に近いようだ。(より一般向き。というか破滅的なラストなのにすかっとする。)どちらにしても今のところ、ちょっと見る気になれそうもない映画のようなので、興味のある人に紹介するに留めておこう。

さてこのビールは、東急フードショーで330ml550円だった。高い。
2004インターナショナル・ビア・コンペティション金賞、2005ジャパンビアカップ金賞と受賞しており、まあそれなりにおいしいビールなのだが、なんて言うか、ちょっと変わってる。非常に鋭いビール。
この鋭さは、普通にビールが「シャープ」という時の「キレ」や「のどごし」とはちょっと異なる。なのでこの表現から、市場を席巻しているA社スーパードライのように「麦汁本来のうま味が薄いことをでんぷん添加でごまかしたシャープさ」を想像しないで頂きたい。

確かに、砂糖を添加してアルコールを9%と高く設定しているので、のどごし感に特徴はあるが、度数8.5%のヒューガルテンには、こんな鋭さは感じない。原料に小麦が使われているけれど、小麦ビールに特徴的な甘さもあまり感じない。添加物ビールにありがちなえぐみも感じない。
でも飲んだとき、決して嫌な感じではないが舌にぴりっとくる「痛み」がかすかに残る。
とても個性的なビール、だと思う。

ヒューガルテンは口当たりが良いので、調子よく飲んでいて気づいたらものすごく酔っぱらってる、という危険があるビールだが、これは飲んでいてはっきり「強さ」が感じられるので、「つい」酔っぱらう、危険は少なそうだ。
「ごまかしなく酔わされるビール」と言えるかもしれない。

なぜこんな名前にしたんだろう。
ベルギーの同じタイプのエールのブランドに「Duvel(Devil)」というのがあるので、それを意識しているとか。「こっちは天国で行くぞ!」みたいな。まさかね。

写真ではわかりにくいかもしれないが、ラベルのDの字に、赤い蛇が絡みついている。誘惑と知恵の象徴だ。
「天国の門に至る前に、多くの人は堕落に導かれる。広き道を行かず、狭き門より入れ。」
私は脅しで人に正義を強いるやり方は好きになれない(ので、その手の要素を持つ宗教は一切ノーサンキューだ)が、人の行動を変えるのに、恐怖による脅しが一定程度の効果を持つことには賛同する。
天国というものが仮にあるとして、「死んだらそこに行くことになっていて、そこでの幸せを約束するから、今は我慢して節制しなさい」と教えることが、人の行動に教育的な効果をもたらすことも、あるだろう。

しかしこの方法(脅し)が使えるのは、最低限の欲望が満たされた人々だけに対してだけだろう。最低限の欲望が満たされていない「飢え(現在が恐怖)の中の人々」に、来世の幸せを約束することがどの程度行動を変える動機づけになるのか、という点はいつも疑問に思う。(この「最低限の欲望が満たされているかどうか」だが、絶対的に規定される飢餓感(最低限の食べ物と寝る場所、つまり基礎安全がないための飢え)と他者との関係性の中で規定されている飢餓感(同じ路上に生活していても、社会全体が路上に生活していて自分も路上にいる人と社会全体が豊かなのに路上に生活しなければならない人とでは、後者の方がより健康度が低いという調査結果がある。確かWHO。うろ覚え。)による「総合的な欲望の満たされなさ加減」で判断しなければならない。この「欲望の満たされなさ判断法」、誰かの行動を変えたいなら、知っておいて損はない。)

まあでも、「最低限の飢餓感」が満たされていてもなお「不安」や「不満」を感じる人(つまり多くの人)には「天国」はなお有効な行動変容のツールになりうる。細木数子があんなにテレビに出ているのも、そういうことなんだろうと思う。(「来世」の幸せのために今の行動を変えろ、って説法の一種だからね、あれは。恐怖を持って恐怖を制すやり方は「みのもんた」「あるある」など、毎日のTVの中にあふれている。この戦術の商売上の優位は明らかだ。)

聖書に出てくる天国は「門」で仕切られており、「ドア」は出てこない。「キリスト教会的教え」で「叩けば開かれる」とされている「ドア」はむしろ教会の扉だ。要するに「あなたが頼ってくればいつでも受け入れますよ」ということを言いたいわけだが、「門」を使うか「ドア」を使うかによって、入りたい本体のイメージが違ってくる。
二つの表現の最大の差は、「入りたい向こう側」が見えているかどうかだろう。
ドアというとどうしても「建物」をイメージし、ドアの向こう側は基本的に「よく見えない(窓から覗くしかない)」感じを受ける。一方門の場合は「見えるけど入れないエリア」が囲われているというイメージだ。
「Garden」という英語は本来「閉ざされた庭」、つまり貴族階級の人たちが所有する「塀で囲まれ、鍵のかかった門で仕切られて、選ばれた人しか入れない庭」を指す言葉らしいが、いくら高い塀を作っても、下々に全く中が見えないということはないだろう。

だから、「天国のドア」とあえて言われた時に私がイメージするのは、向こう側が天国かどうかわからないけれど、とりあえずここが天国の入り口なのでは、と考えられる建物の「ドア」。扉を叩いている側の「天国」に対する確証感が異なるように感じられる。
「天国のドア」という言葉がどのように世間で採用されているかを見ても、同じような感触を期待して使われているんじゃないかという気がする。
またその建物が教会のドア(キリスト教会的天国への道のりは、教会のドアを叩き→入って神の僕に懺悔して→信仰して狭き道を行けば→天国に入れる、となる)ならば、「扉を叩き続ける必要」はとりあえずないだろう。(建前上は祈りの場に鍵をかけてはいけないことになっている。実際は知らない。)
となると「叩き続ける必要がある天国の扉」ってどこの「扉」なのかな、という疑問がわいてくる。

扉を開けてもらえないものの痛みを歌ってるようにも聞こえるディランの名曲、歌詞は次の通り。
Mama, take this badge off of me
I can't use it anymore.
It's gettin' dark, too dark for me to see
I feel like I'm knockin' on heaven's door.

Knock, knock, knockin' on heaven's door
Knock, knock, knockin' on heaven's door
Knock, knock, knockin' on heaven's door
Knock, knock, knockin' on heaven's door

Mama, put my guns in the ground
I can't shoot them anymore.
That long black cloud is comin' down
I feel like I'm knockin' on heaven's door.

Knock, knock, knockin' on heaven's door
Knock, knock, knockin' on heaven's door
Knock, knock, knockin' on heaven's door
Knock, knock, knockin' on heaven's door

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追加:私自身は「天国」も「来世」も「輪廻」も信じないし、死んだら土に帰って終わりたい、と強く希望している。以前道端で宗教団体の勧誘の人に「人は死んだら必ず天国か地獄のどちらかに行く。あなたはどちらに行きたいか。」と話しかけられ、「私は土に帰るつもりなのでどちらにも行かない。」と答えたら「そんなことはできない。どちらかに行くしかないのです。天国の方が良いでしょう?」と断定されたことがある。
私はどちらにも行くつもりがないので、とさらに強く主張したら、「じゃあ、好きにして」と言い捨てて、憐れむような目つきで去っていった。キリスト教系新興宗教だったが、「天国に行くのは最後の審判後で、死んですぐではないのですよ」と教えてやればよかったかも。
藪蛇か。
「そしてラッパを吹かれても、私は甦るつもりがないの。」って意味だったんだけど。強制的に甦らされるのも迷惑な話、って、彼ら(アブラハムの宗教人たち)は思わないのかな。
by fishmind | 2006-03-31 09:53 | お酒の話