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魚心あれば水心

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魚心あれば水心あり:魚と水は互いに相手を欠くことのできない密接な間柄であることに例え、相手が好意を持てばこちらもそれに応ずる用意があることにいう(広辞苑)

可能性を信じる


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TITLE:Believe〜僕たちは自分の目で世界を見る〜
DATE:2006年1月21日(土)〜ロングラン上映中
TIME:10:45~、13:30〜、16:00〜
BY:小栗謙一(監督)
AT:シアターイメージフォーラム(JR渋谷駅徒歩5分)
FEE:¥1500(当日)¥1200(特別鑑賞券)



一昨年、長野で「スペシャルオリンピックス(SO)」世界大会が開かれた。
この映画はこの大会の記録映画、ではなく、この大会の取材チームのドキュメンタリー映画である。パラリンピックにあわせて開催されたキャンペーン上映会の招待券をもらったというTさんに誘われ、観に行ってきた。



SOについて、まず説明しなければなるまい。スペシャルオリンピックス(SO)は、「知的な発達障害を持つ人たちのスポーツ競技会」を行う非営利組織である。

スペシャルオリンピックスの使命は、知的発達障害のある人が、様々なオリンピック形式のスポーツ・トレーニングや競技会に年間を通じて参加できるようにすることにより、彼らが健康を増進し、勇気を示し、喜びを感じ、家族や他のアスリート、そして地域の人たちと能力、技術、友情を分かち合う機会を継続的に提供することです。

スペシャルオリンピックスは、アスリートを中心にそのご家族とボランティアが一体となって活動を進めることにより、彼らの運動機能向上、身体的な発達促進ばかりでなく、チャレンジ精神や勇気を培い、目的達成の喜び、生きる喜びを共感、共有することを目指します。
SOはひとりひとりの個人が自然に、あるがままに受け入れられ、認められるような社会になることを願っています。

スペシャルオリンピックスと名称が複数形なのは、日常的なトレーニングから世界大会にいたるまで、いつでも、世界中のどこかで、この活動が行われているからです。

(スペシャルオリンピックス日本ウェブサイトより引用)

この団体の取材記事を書いたことがある。取材した頃(2000年)はこの活動はほとんど知られていなかったが、昨年(2005年)、アジア初、長野でSOの冬季大会が開かれ、活動の知名度が急速に上がった。
競技会を知ってもらうために夏に行われた全国縦断トーチランキャンペーンは、テレビを中心に大きく報道されていたし、スターバックスコーヒーのファンなら、この会社が「SO長野大会」バックアップのための基金つきスターバックスカードを売り出していたことを覚えておられる方もいるだろう。(私も買い、今でも使ってます。)
SOは「国際的な非営利団体」ではあるが、その規模はオリンピックやパラリンピック委員会と比べたらものすご〜〜く小さいので、ちょっとした報道に触れるたびに「ああ、頑張ってるなあ」と感心していた。

紹介する映画は、そのSO長野大会を、当事者(知的障害がある人)が報道するというプロジェクトを追ったドキュメンタリー。
選ばれたメンバーが集まって訓練が始まった夏から、大会前後のイベントや本番の様子などが写され、プロジェクト終了後の夏、もう一度集まったメンバーが将来の夢を語る様子が描かれて終わる。約100分ちょっとのフィルムである。

映像のプロたちが9人の当事者を約10ヶ月訓練・サポートして、知的障碍者の可能性を拓くスポーツ大会を、知的障碍者が報道するという企画に仕上げたのは、すでに2本の知的障害者を対象にしたドキュメンタリーを撮った映画監督小栗謙一さん自身である。
映画によると、「なぜ対象にするばかりで、一緒に映画を撮ろうとしないのだろう」という自問自答と、他の国には知的障害者の報道チームがあるのを見たことが、「一緒に映画を撮ろう」というアイディアになったらしい。

伝える側、伝えられる側の関係性から生じた監督のこの「自問自答」、共感できる。
こういう矛盾が生じることを報道者として「甘い」と断じる人もいるようだが、私自身は、自分を完全に客観的な立場に置いて報道できると思っている報道人の方が「伝える」仕事を甘く見ていると思う。
人が瞬間に立ち会う以上、その瞬間に完全に巻き込まれないでいることはできない。伝えることを厳しく考えるのならば、「甘い」という決めつけが、自分の立ち位置の見極めに対する繊細さを奪ってしまうことこそ恐れるべきだろう。
自分の感情の揺れを「甘さ」として否定した時点で、自分の主観性と客観性を冷静にチェックすることができなくなる(「甘い」と断じることは、自分の感情が巻き込まれることに対する過度の恐れから生じていると見ることもできる)。報道する側の感情が無視された報道には、「見る側」と「見られる側」の関係を取り持つことはできないだろうと思うのだ。

しかし、「甘さ」が時に報道の命取りになるのは確かだ。
この映画、「甘すぎる」。

私の言う「甘さ」は、伝えたい側の「思い入れ」ばかりが目立ち、「伝えたい対象」の情報が不足しているために、「情緒的な理解だけで観客に説明しようとしてしまっている」ことを指す。
例えば、「知的に障害がある人」を中立的に説明する言葉(ナレーション)が映画の中でほとんど使われていないこと。
「障害者問題」に興味がない多くの人は、知的障碍者は「知能の発達が遅れた人」という理解以上には知らないだろう。でも実際の彼らは知能(認識やコミュニケーション力)の遅れだけでなく、神経や感覚器官の発達障害を持っていることが多い。身体や精神面の多様で複合的な障害の現れとしての「知的発達の遅れ」なのである。

その彼らが「カメラを並行に支え」歩きながら「対象にまっすぐにカメラを向け」たり、三脚に固定したカメラを「動く対象を画面の真ん中に入れ」てなめらかに動かしている姿に、私は感動した。三脚の「レベルの取り方(水準器で測って水平を保つ作業)」を習うシーンがあるのだが、この作業は簡単そうに見えて、実は(健常者でも)慣れるまでに少し時間がかかる。基本中の基本で、撮影を習い始めた頃、この作業に手を抜く癖をつけないよう、先生から厳しく指導されたりもした。(スチール、つまり写真でも結構面倒くさいのだから、ムービーカメラはもっと面倒くさいだろう。)

無意識に「水平」「垂直」な画面が保てるようにならないと、動く対象物を追う映像が自然なものにならない。この「まっすぐ」の確保のためには、レベルとともに三脚のレバーを使ったティルト(斜めの動き)によって、カメラを動かすたびに生じる画像のゆがみを調整しなければならないが、これも、最初は思い通りにパーン(左右にカメラを振って広い範囲を撮影する操作)させられず苦労するものである。
肉眼で見ている風景と撮影画面を見ながら、画面の差を頭の中で調整してカメラを動かすことを覚える過程がどんなに大変だっただろう、と観ていて感じた。

スキー場で、冷えきった機材を素手で触って操作する辛さ。手がかじかんで、うまく操作ができずにいらいらすることもある。
マイクとカメラをつなぐタップ(コンセント)の位置や関係を覚えて迅速に組み立てることがどんなに頭を使うか。
さりげなく流れる映像の中にある、撮影経験のない人なら見落としてしまうであろう彼らの細かな動きが、「ああ、これはすごいな」といちいち目に留まるのは、私が映像撮影の経験者だからだろう。そして、山ほど撮った映像の中からこれらのシーンを選び出してつないだ制作側の意図も、「そこを見て欲しい」からだろう。

それならなぜもう少し、丁寧な言葉で説明しないのか。
こういうドキュメンタリーを見ると、映像を扱う者には心のどこかに、「見ればわかってもらえる」という「見ることへの過剰な信頼感」があると感じる。自分も映像を扱う(そして私は結構説明的な方なので、そこはよく批判される)し、「言葉を使わずに映像に語らせる」ことができての映像作家だという点は同意するが、特にドキュメンタリーフィルムであって、対象に対する理解や啓発をその中に含んでいる(多様な解釈以前に、対象への理解が観客側に圧倒的に不足しているような問題を扱っているという意味)映像を提供している時、提供する側が「説明するより見てもらえばわかる」と思っているなら、それは「作家の甘え」だ。

「私」は、困難を一つ一つ乗り越えて学びながら、伝えることに必死になる彼らの姿に、心から感動した。
しかしこの感動は、それほど難しい作業に見えないことが、思いがけず難しく、しかも彼らの障害がどのような制限を彼らの身体に与えているかについてある程度知識があるために得られたもので、映像への観察力を持たず、知的障害を全く知らない人に、あの映像と説明だけで、「大変だなあ」「頑張っているなあ」という感情以上の、彼らが取り組んでいる困難の質を伝えることができたのだろうか、という点は疑問だと思った。
もちろん、説明すれば「ステレオタイプな理解の押しつけ」が必ず入ってくる。どの程度説明し、見る側の理解にどの程度ゆだねるかという判断はとても難しい。プロの技術では、常にそこが問われる。
その難しさを知っているからこそ、そして映像が良いだけに、シナリオや構成にもっと工夫ができただろうと思うのだ。

これが私の独断による厳しい批評ではないことは、一緒に観たTさんも同じような感想を持っていたことで確信した。Tさんは国際人権問題で広報をしていた経験を持ち、映像ドキュメンタリー作家の友人も何人もいて、「社会問題の報道のあり方」には厳しい。また彼女はちょうど、仕事で知的障碍者の就労問題を取材している最中でもあった。
Tさんは「感動を盛り上げようとする音楽の使い方」「ナレーションの重さ」などを指摘し、視点は異なっていたのだが、制作者が障碍者を情緒的に捉えすぎており、もっと良い「作り込み」ができたはずだ、という点では意見が一致した。

特に偏見や差別を扱う問題での言葉を使った説明は、誤解を避ける言い回しや表現の繊細さを要求されるため、「どうとでもとってください」と映像を見せる方が楽なことは、二人ともよく知っている。「余計な一言」が深刻なトラブルに発展し、それを回収するのに非常な労力と時間が必要になることが起こり得ることも。
しかしそこに突っ込んでいかなければ、自分たちが伝えたい問題を十分伝えることができないなら、突っ込むしかないだろう。
細心の注意と丁寧さをもって、もう一歩踏み込んで欲しかった映画であった。

私はこの監督は、とても良い仕事をしていると思う。知的障碍者が可能性を持った人たちである、というメッセージを持ったドキュメンタリーはいくつも見たが、「自分たちの仲間」として何とか彼らと関係づくりをしたいと思う取り組みから作られた映画はあまり知らない。
願わくばこの監督が、3部作の集大成としてこの映画を考えずに、ここから発展させてさらなる「彼ら」を伝える仕事を続けてほしいと思う。もしこの取り組みがこの作品で完結するなら、映画の冒頭で監督自身が社会に投げかけた、「なぜこんなに、知的障碍者の社会参加が遅れているのか」という疑問に、自ら背を向けることになると思うからだ。
情緒に訴える映像は、時に大きな効果をもたらす。しかし、多くの感動的なドキュメンタリーが流される一方で(特に、毎年夏に某TV局が大々的に行うキャンペーン番組など)、障碍者への理解が全く進んでいない現実を、問題を伝える仕事をしている人間は真摯に見つめなければならない。
最後に、私とTさんがこの映画でもっとも感動した場面を紹介する。


映画の最後に出てきた謝辞で、この映画に寄附(助成元、協力者)した個人名が「すべて」上げられていたシーン。(Tさん)

SO長野大会の選手のプレー。特にフィギュア女子で金メダルを取った選手の演技。これほどなめらかに筋肉を使えるようになるまでの本人と周りの努力が見えるようだった。(私)

全体批評が厳しくて申し訳ないが、そうは言ってもこの映画は、一つ一つのシーンが多くを語る「良い映画」ではあるので、できるだけ多くの人がこの映画を見て欲しいと思う。まだロングラン中であるし、上映会開催申し込みも受け付けている。興味がある方は問い合わせてください。そして上映会をするだけでなく、この映画をダシにいろいろな意見を交換してほしい。
映像は言葉を引き出す役割を担っているのであって、言葉を圧することがあってはならないというのが私の考えだ。言葉を封じることでは何も生まれない。これは、伝える側、受け取る側の両方に言えることである。(逆もまた真なり、だ。私は言葉がすぎる。気をつけなくっちゃ。)
その意味でこの映画は、いろいろな使い方の可能性を持っている。

おまけ:Tさんが感動したシーンについて。
大量の支援者の個人名の中に知っている名前がちらほら見つかり、SO大会のことが多少は知られるようになったとはいえ、まだまだ一部の良く理解している人と、全く知らない圧倒的多数の人たち、という構図にはほとんど変化がない現状を思った。
「それって、ただあなたが顔が広いってことなんじゃないの」とTさんは言うが、一人の人間が持っているネットワークなんてたかが知れている。そもそも映画館に足を運んでいた人たちの多くが「見るからに関係者」だったではないですか。
伝えようとする側の目の前には、「無関心」という広大な荒れ地が広がっていることを思い知らされたあのシーン、Tさんとは違い、私は本当に憂鬱にさせられました。

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by fishmind | 2006-03-21 09:49 | ボランティアの話