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魚心あれば水心

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魚心あれば水心あり:魚と水は互いに相手を欠くことのできない密接な間柄であることに例え、相手が好意を持てばこちらもそれに応ずる用意があることにいう(広辞苑)

戦争を記録する(5)

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TITLE:DAYS JAPAN
Edited by:広河隆一責任編集
Published by:DAYS JAPAN
http://www.daysjapan.net/



「一枚の写真が、世界を動かすこともある」<この雑誌のコピー>



世界(語弊のある言い方だが、とりあえず今はこう書かせてもらう)が「テロとの戦争」とやらを始めた頃に発刊されてかなり話題になった雑誌だが、ようやく初めて手にとらせてもらった。



「見ることは信じること -Seeing is Believing -」という英語のことわざがあるが、この雑誌は全体から、見せることで信じさせ、視野に入れることで心に留めさせようという努力が立ち上っている。更新されるたびに画像が劣化するjpgデータみたいに、映像ジャーナリズムが日に日に摩耗しつつある中で、何とか最後の抵抗を企てようとあがいているジャーナリスト魂が固まったような雑誌だ。

でも。
この取り組みを否定するつもりはないのだが、私はこの雑誌を見ながら、どのように映像を使ったら、「見ること」と「信じること」の間にかかる短い橋を、出来るだけ多くの人がゆっくり渡れるような伝え方になるのだろうか、ということばかりを考えていた。
映像と映像の間に存在するはずの「時間」が、雑誌からうまく感じとれなかったためだ。

写真を撮る者は、視野と視野の間に「一瞬で永遠の時間」が存在していること、それはその瞬間(シャッターチャンス)に立ち会った者にしか知ることができないことを経験的に知っている(はずである。)。現場では「観察者」として振る舞いつつも、実はすべての「撮影者」は、その瞬間に立ち会った時点で「当事者」となっている。写真家は恣意的に切り取った「視野」を「観察者」の立場で観客に提示してみせるが、写真家自身は「切り取られた枠の外側に広がる世界」を対象者と共有していた「当事者」なのだ。

一方、撮影された「作品」をみる観客は、その作品の「視野」をいくらリアルに共有したと感じた(共感した)としても、あくまでも「傍観者」以上の存在になることはできない。どんなにすばらしい想像力や共感性を持っていたとしても、その場に立ち会っていないのであれば、枠の外側の世界は想像の中にしかないのだ。
ところが写真(映像)というメディアが、視覚を非常に巧みに写し取ることが可能な技術と表現力を得たことで、当事者と傍観者の双方が、自分たちの「当事者性」や、「傍観者にすぎないという対象からの断絶感」を忘れてしまいがちになる、という別の問題を生み出してしまった。
リアルに見えるために、より深く理解しようとしなくても(そしてそれほど長い時間を使わなくても)、多くの人が対象についてわかったような気になってしまう、という意味だ。

映像技術の進歩は、この「伝える難しさ」に一つの解決、「再現性の良さから生まれる現実味(リアリティ)」を与える一方で、簡単に現実感(リアリティ)を得られることが却って、「対象への深い理解や洞察力の必要性」を奪い続けているのではないか。

伝える作業の「正確さ」に照準を当てたいなら、現実の複雑さを巧く映像に織り込む加工が必要になる。切り取られた世界は、観察者が見てきたものの部分にすぎないから、鑑賞する側がその切り取られた視野から思考なり想像力を発展させて、枠の外に広がるものまでを理解できるように働きかけなければならない。それが、「プロの技術」と言うものだろう。
一瞬のシーンを切り取る写真という手法では、どう工夫しても対象(被写体)を単純化せざるを得ない。複雑な対象を表現したいと思えば思うほど、その表現技法の限界に直面させられる。
フォト・ジャーナリズムは、このような写真の限界を複数の写真をつないで克服しようとする。つなげることで全体を見せ(想像させ)る作業の要は、一瞬と一瞬の間にある「時間」の長さと質を、「どのように」表現するか、になる。
時間は「思考」を内在させ、そのことにより対象の「複雑さ」を浮かび上がらせてくれる。切り取られた枠の外側にある広がりをどのように感じ(想像)させるかが鍵となり、多くの場合、ルポルタージュやキャプションなどの「文字」が、時間を生み出す役割を果たす。できるだけ正確に伝えたいと思うなら、映像だけでなく、言葉がうまく使えるようにならなければならないし、受け止める側も、きちんと言葉が使える人たちでなければならない。
これは、「一枚の写真で見せる場合と、連続の写真で見せる場合の表現上の差異」であるが、ショットを押さえることに慣らされた職業カメラマンにとってこの作業は、一行で表現できるほど簡単なことではない。

この雑誌はあまり文字に頼らず、さまざまなインパクトのあるショットを観客に繰り返し見せつけて、興味の対象が心に留まり続けるようにする、という戦略をとっている。しかしこのように、次から次へと「瞬間」を繰り出す手法を取る限り、テレビが「たれ流す」映像のスピードに慣らされてしまっている読者(観客)に「深く」考察できる「時間」は与えられない。「映像を浴びた瞬間の感覚だけを頼りに与えられた情報をつなぐ」という認知作業を強いられる観客には、「表面的な感情の乱れをなぞりながら対象を解釈する」以上の情報処理は不可能なのだ。
それに、常に切り取られた視界を浴びせ続けられることで、却って視野の外にあるものを想像しようとする意志が摩耗していく恐れもある。いや、これは「恐れ」ではなく、映像ジャーナリズムの発展に伴い、すでに現実化していることだ。

読者(視聴者、でもよいが)は、目の前に繰り広げられるリアルな風景によって、「これが現実だ」という感覚を与えられる。映像から直感的にさまざまな感情が生じるが、これらの感情(「むごい」「ひどい」「こわい」などの負の感情に限らず、「うつくしい」「あたたかい」「ゆかいだ」などの正の感情でも効果は同じだ)はあくまでも、映像刺激によって表面的に生じた「傍観的」なものであり、現実の複雑さの中におかれたもの(当事者)が持つ感情とは異なっている。
しかし、視覚という、認知に強大な影響を与える感覚器官は、現実の複雑さも「見ている」かのような錯覚を生みやすい。

そしてもう一つ、この手法では、ショッキングな映像に触れる痛みから、「こんなものもう見たくない」という、ドキュメンタリーに対する忌避感情も生みやすくする。映像への慣れ、表面的な理解、そして、忌避感情から生まれる無関心。どれも、ジャーナリズムがもっとも生み出してはならないものだが、ここで改めて指摘するまでもなく、多くの映像ジャーナリズムが、連日様々な映像メディアを使って、こうした社会意識(社会感情、と言っても良い)を量産している。

「Seeing is Believing 」というの諺の意味は「百聞は一見にしかず」だと、中学校で習ったが、この映像メディアの最大の強みは同時に、現在の映像ジャーナリズムの摩耗を生んだ原因ともなり、最大の弱点も生み出した。
これからの時代、テレビの映像映像スピードに慣れた観客を飽きさせないで引きつけながら、一つのショットから観客が緩やかに思考をパーンさせていけるような表現上の加工の工夫が、映像ジャーナリズムにはますます求められるようになるだろう。映像を次から次へと投げつけ、「さあ、考えろ!」と呼びかけるだけで考えてくれるほど、観客たちは単純でも、馬鹿でもない。

「百聞は一見にしかず」かもしれないが、「一見は百言を生まず」。「Believing is not Understanding」、なのだと強く思う。

私は、当事者と傍観者の間にある立場の相容れなさを埋める作業が「伝える難しさ」と呼ばれるものの本質ではないかと思う。当事者である自分と、観察者(傍観者)である自分を内包しつつ、当事者(対象者)と観客(傍観者)のつなぎ手であろうとするのが、ジャーナリスト、あるいは「伝える仕事をするもの」の役割だ。伝え手の自己矛盾が深いとき、「伝える仕事」は難しくなるが、それを乗り越えて伝えられたものは、異なる立場のものたちを深く結び合わせる。

「深い理解を生み出そうとすることへの真摯さ」は、ものを伝える仕事をするものの職業意識に不可欠だ。この雑誌に伝える側の真摯さがあることはもちろん認めた上で、なお、この雑誌の手法は、その真摯さに比して十分な効果を発揮していないのではないか、と感じる。見ることを仕事にするものが、本当にプロとして伝える仕事をしたいなら、この雑誌が提案している方法とはもっと別な「真摯さ」へ、今の技術を革新する必要があるのではないだろうか。
「一枚の写真が、世界を動かすこともある」と言うコピーは、一面、真実だろう。しかし、一枚の写真によって動かされる大衆(ポピュリズム)は、現実の複雑さを消化しきれない行動になることが多い。一枚の写真によって動かされる現実が問題解決に結びつくとは限らないのだ。
このことを理解しない映像ジャーナリズムが、時に恐ろしく危うい扇動手段となることは、すでに歴史が証明してきた。その現実への真摯な反省を持つことは、まがりなりにもジャーナリストと名乗って仕事をする者の「プロのモラル」であると思う。

私がこういう乱暴なやり方が嫌いだという感情から、大御所(薬害エイズとか報道してくれてるし)の編集に文句をつけてるだけなのかもしれない。しかし私はこの乱暴な真摯さの押しつけに「ジャーナリズムの古くささ」を見てしまうのだ。もしも現実の複雑さをもう少しきちんと伝えたいと思うなら、そして大御所として自分の影響力を最大限に使いたいと思うのなら、もう少しましなやり方を考えた方がいいんじゃないかというのが、この雑誌に対する、私の、本当に正直な感想である。

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by fishmind | 2006-03-10 21:41 | 戦争と災害の話